昭和47年09月18日 朝の御理解



 御神訓 一、「信心する人は何事にも真心になれよ。」

 信心する人は何事にも真心になれよ。と言う真心と言うのはです。真心と現わしてありますね。真心と書いて、しんじんと読ませてあります。ですからお道で言う真心と言うのは、普通で言う真心とは違う様です。どういう風に違うかと言うと、お道で言う真心と言う、所謂真心(しんじん)には、必ずおかげが伴うと言う事です。是は信心がなかっても、やはり真心でとか、真心で表わす何々と言った様な事を申しますよね。
 だから信心のない人には、真心は尊いものですから、真心を尽くす事は大変有難い事ですけれども、それがおかげには繋がらないです。お道の信心をする者と、こらもうお道の信心と言わなければならんと思うですね。信心する人は、お道の信心する人は、何事にも真心になれよと、という事になる。だから何事にも真心にならなければいけない。しかも、その真心には、必ずおかげがつきものだという事。そこでおかげが伴うてくる程しの真心というものを信心を求め、追求してゆかなければなりません。
 四神様の御教えの中にも、おかげが受けられん時には、真が欠げたと悟れと仰る御教えがありますよね。言うなら真心が欠げたと悟らせてもろうて、その真心の限りを尽くさせて頂く。その辺の所がですね、なかなか出来ません。中々本当のおかげにつながらない。現教主様はそこの所を、実意をこめて全てを大切にと仰る。これは真心という事です。実意をこめて全てを大切にしていく。そこからは必ず神様のお働きが、至る所に表わされてくる。おかげが実現される訳です。
 本当にどこにおってもどんな場合であっても、そこに私共が実意をこめて、全てを大切にしていきよれば、そこに神様を表わす事の出来る程しのおかげが伴うてくる。おかげにつながるところの信心。おかげにつながるところの真心。これはお道の信心の法則だと思うですね。絶対なもの。だから、これは、何々宗やら、何々教では駄目なんです。例えて言うなら、他所の信心のない人が、又は他の信心をしておる人がです。実意をこめて全てを大切にしたところでです。それはおかげが伴わない。
 それはもう金光大神の世界、いわゆる金光教の信心によってのみ言われること。だから金光教の法則という事になります。ちょっと昨日の御理解につながっておるような感じですね。教祖の神様が、そう教えておられるのであるから。教主様が、そう教えておられるのであるから。条件はないのです。無条件にその事に精進する。その事に取り組んでいくという事になりますとです。そこに、おかげがハッキリ約束される。実意をこめて全てを大切にしてないところにです。おかげが、ちぐはぐになる。
 昨日、朝の御祈念が終ってからですから、昨日の御理解は、受けておられない訳ですね。吉井の熊谷さんがお届けされますのに、先生、昨日は、何か用があって、町へ出られたんでしょう。そしたら鳥越製粉の前に、お米が一杯こぼれておった。だからそれを拾わせて頂いた。親先生は子供の時からこれだけは実行して来ておると、いつも教えられる。これは米だけではない、穀物がそこに小豆でも大豆でも落ちとるというたら、これは私は自分、ハッキリ覚えませんけれども。
 十一、二才位からじゃなかったろうかと思うのです。先代の親先生が、お説教の中に穀物の大事な事を、色々説かれたのが、子供の心の中に少し残っていた。はぁ穀物ちゃそんなに大事なもんばいなぁと思うてです。それから実行しておる事です。私はある秋の運動会の時に、運動場に白い線を引きますよね。それが昔は石灰でこうやっていた。それがまぁだ、私共、知らん訳ですよ。けれどもその事だけは、しっかり守っておる訳です。丁度米粒が落ちとると思ったんですね。
 だから勿体ないと思うた訳ではないけれども、それを実行しておる時ですから。それを拾って、ちょっと口の中へ入れたら、それが石灰なもんですからね、石灰のちょうど米粒ぐらいの大きなものだったものですから、もう口をゆすいでもゆすいででも、難儀した事がありました。けれどもやはりそれを実行致しましたですね。もう自転車で参りましても、散らかっているのを見ますと、飛び降りてからたとえ三粒でも揃うて、ポケットの中に入れておる。
 ですから私のポケットの中には、小豆やらお米やらそんなもんが、いつも入ってました。だからそういう話をいつも聞いておられるもんですから。熊谷さん、それを実行された訳です。そしたらね感動が起ってきた。しかも親先生今朝迄、その感動が続いておりますと、こう言われる。素晴らしい事ですね。教祖様が教えられたのだから、そこには理屈はないのです。そげん忙しか時やらよかろうもんといった様な事であったり、教祖様はそうおっしゃるけれどもと、けれどもをつけたり。
 おかげば頂かにゃんけん、それを実行するとかと言う条件があったり。これではいけない事が分かるといった様な御理解でしたよね、昨日の朝の御理解は。それで私は、熊谷さんに、その事が、今朝の御理解だったですよと言うて話した事でした。それが先生、不思議な事は、例えばです、そういう事は、合楽に御神縁を頂いて、成程親先生が、道に落ちておる食べ物でも、拾うて押し頂かれたという事を聞いて、いつも実行しておる。けれどもです、昨日のような感動が湧かなかった。
 それはどこに違いがあったかと言う事を、考えさせて頂いておりましたらです。昨日の、お米を拾わせて頂いたという事には、全然理屈も条件もございませんでしたと言うのです。ただ親先生がされるから、私もそうさせて頂いたと、こう言うのである。昨夜の御祈念にも参って見えてから、それと同じ意味の事をお届けしておられる。いつもお手洗いで、手を洗わせて頂いて、親先生はいつも手にお水を頂いてから、口をゆすがれてお水を頂かれる。けれども口のにきが濡れるから、それだけは実行してなかった。
 けれども昨日は濡れたっちゃ、ちょいとハンカチを出して拭きゃよかこつじゃから、親先生がさっしゃる通りにと思うてさせて頂いたら、もう感動が湧いてきますとこう言う。所謂金光大神に対するところの憧念心と言おうか。師匠に対する所のどうねんしんが、このような理屈ではない心に喜びが湧いてくる。私は金光様の御信心はそこだと思うんです。教えられた事を解明して頂いて、理解して頂いてそれを少年シン、分かったからおかげを頂くのじゃないです。
 分かったからおかげを頂くと言うならば、それはもう金光様の先生は、その事ばっかり勉強しとるのじゃから、てぇげぇな事は分かっとる。そらもうお説教どんさするなら、こたえんごとやるです。そればってん、おかげを受けてないという事実が、沢山あるでしょうが。だから詳しくなるとか、分かったではいけんのです。今日の何事にも信心になれよという事。そんなら信心になれよという事をです。何事にもという事なのですけれども、なかなかお粗末御無礼な事でございますけれども。
 せめてこの事だけは親先生が、金光大神に通じてござる。金光大神が天地金乃神に通うてござる。ならば親先生のあり方を、真似させて頂いただけでも、天地に通ずるという事は分かるじゃないですか。親先生が金光大神に通じてござらん。天地には通うちゃござらんというのであっては、私は、大した事はなかと思うです。だから師匠を信ずる、先生を信ずるというところがです。信じたら、それを、私は、素直に理屈を抜きにして受ける。今迄は親先生、お米を頂かせて貰うた、拾らわせてもろうたらです。
 それを袂の中に入れたらです。それが忘れられん。帰ってから米びつの中に入れにゃん。どういう風にこれば使おうかと思うておる訳です。今迄はそうだったところが昨日のだけは、もうそういう事は理屈ではなかった。ただ親先生がなさるからしただけである。大体言うたら、さぁ拾うたお米はどう生かそうか、その拾うたお米をどのように使おうか。お粗末にならんように米びつの中に入れようか。いやもうここで頂いてしまおうかという風に言うた方がですね、信心のようですけれどもそうじゃないです。
 そこにはそういう理屈がある。だからおかげには繋がらなかったという事を感じますということを、昨日熊谷さんが言うておられます。教えというものは本当に純粋な無条件のもの。おかげを受けるからとかどうとかじゃない。只金光大神へ対するところの憧念心というものが、憧れの念というものがです。真似でもさせてもらうという、そういう純粋さがね。昨夜から、昨日の朝のお参り迄、感動がまだ続いておりますというような感動になって表れておる。
 昨日の御理解を頂かれて、その意味がいよいよ分かられた事だろうと思うです。もう至るところでです、私はそういうおかげを体験する事が出来る。現わす事が出来る。それは、教祖金光大神の世界、金光大神の世界の法則だと思う。そういう状態になったら、おかげがそこに表れる決まりになっている。これは金光大神の世界だけ但し。何々宗じゃ駄目、何々派でもいけん。ただ信心がないなら、真心真心それは真心というものは実に尊いもの。だから真心で真心でという事を言われるのですけれども。
 けれどもそれにはね言うならば、願ってやまないおかげは伴わない。人に真心をすると気分はいいです。けれどもおかげには繋がらない。神様の特別な働きには繋がらない。その事をここではね何事にも信心になれよと言う事を、真心になれよと説いてあるんですよ。勿論、信心という事と、真心とをかけてあるですね。昨日はいつも日曜に必ず夫婦で参って来る方がある。昨日は朝、私が奉仕しとる間には参って来なかった。そしたら午後の奉仕の時に参ってみえた。
 その方は大変お酒が好きで、いつもお酒で失敗をする人なんです。この頃からある難儀な問題があって、お願いをしておられるから、お届けはしきらんけれども、自分の心の中に誓った。「お酒を止めます」ちこう言う。ところが先生、不思議な事にですね、酒を飲む時間になると、その事だけば、コロッと忘れとりますち、こう言われる。いいですね。飲む時だけはコロッと忘れとる。
 普通の時には、お酒は禁酒しとると思うていつも忘れとらん。けれども飲む雰囲気になったり、いよいよお酒を飲まんならんという時だけは、コロッと忘れる程しにお酒が好きなんです。だから私がごたる者は、おかげは頂ききりますめぇち、こう言われるです。そげなこつじゃなかですよ。あなたがコロッと忘れとるという事は、神様が忘れさせてござるとですよ。そして好きなもんば、あなたに与えようと思うてござるとですよち言うて話しました。ははぁこれが他の何々様に御願掛けちから。
 禁酒してそして飲んだら罰かぶるごとなっとる。他の神様やら仏様やらは。ところがね、金光様の神様という方は、そういう神様ですかと言うて、それは白ごつじゃないらしいです。もう飲む段になるとコロッと忘れとるち言う。神様が忘れさせてからでも、好きなもんだから、与えようとなさる、その親心に、感動しなければいけませんよ。その事にお礼を申し上げなければいけませんよ。ここにおかげをお取次がせて頂くコツというものがあると思うですね。
 そげなこつしよると、今にお気付け頂きますよと言うたら、ほんなこてお気付け頂きます。けれどもあなたコロッと忘れさせて頂くちゃもう、自分で忘れようと思うて忘れたつじゃなかっじゃもん。やっぱりコロッと神様がその時だけは忘れさせて、お酒を頂き終ってから、アラまた飲んだと言うて、お詫びをするけれどももう後の祭りだという訳なんです。だからそれは後の祭りじゃない。それはおかげだとして頂かせてもらう。お礼を申し上げにゃいかん。そして又精進をさせてもらう。
 そこから頂かせてもらわなきゃいけんと言うて言うた。ですから、何事にも信心になるという事は、言うなら、そういう事も含まれる訳です。素晴らしいでしょう。今日私御神前で「失礼」という事を頂いた。礼を失するという事。例えば失礼しますとか失礼しましたとか。これは言うなら簡単な時にそれを使いますね。本当に何かがあった時には、御無礼と言った風に申します。重々悪うございました、という様な場合は御無礼と言う。そこんところをお道では、お粗末御無礼と続けて申します。
 どこにお粗末があるやら、どこに御無礼がありますやら、あい分かりませず。人間凡夫の事で、これで済んだとは思いません。これが教祖金光大神の、神様に対する姿勢でおありになった。肯定もなからなければ否定もないというのです。今私がお酒をやめると言うた人に対する、それは御無礼でもなからなければ、と言うてそんならよか事したという事でもないのです実を言うたら。その辺のところが、私は金光教の信心の素晴らしいところだと思うです。例えば難儀な問題が起きた時にです。
 どこに神様のお粗末御無礼があったやら分からん。これはもうそれこそ方角を見て建てたとだけではありません、という訳です。狭い家を四方に広げたのでございますから、どこに神様のお粗末御無礼があったやら分からんという時に、お使いになっとるお言葉ですよね。見る事だけは見ました。ちゃんと方角も見た。日柄やら方位やらもちゃんと、するこつだけはしてから、家を扱いましたといったものではない。人間凡夫の事ですから、どこにお粗末御無礼がという。
 ここのところにお粗末御無礼と言うことです。御無礼という事は本当に自分が御無礼と感じた時お粗末という時には、それの簡単な意味の時という意味でしょうね。人間に使う場合でもそうですね。ちょっと失礼しますという位な事は、誰でも、許されるものとして使うですね。御無礼な事は許されない。御無礼と知ってどうしてそげなこつするかと、こう言われる訳なのです。けれどもお粗末と教祖はおっしゃっておられるが、そこ辺が失礼という意味じゃなかろうかと思うですね。
 ちょっと失礼しますという位ならです、神様も大目に見てござる。人間でもちょっと失礼しますと言うて、例えば人の前を通る時なんかは、ちょっと失礼致しますと言や、受けた方も腹かきゃせん。黙って通ると腹かきゃせんでも、どうした御無礼な奴じゃろうかとこう思う。ですからこの辺のところがです。いつも対神様の場合です。実意をこめて全てを大切にといったような事でもです。ここには実意を欠げたと思うたり、もう実意を欠いでおる事は分かりながらも御無礼しますとか。
 又は失礼致しますとかというところが、いるように思われますですね。信心を目ごもうと。それを私共がもう全ての事の上にです。心を使わせて頂いておりますと、今迄お粗末御無礼の多かった事に驚く程しに、目が粗い事に気付かせてもろうて、そういう眼が開けてくる。いわゆる心の眼が開けてくるのです。真の道を行く人は肉眼を置いて心眼を開けよと、次の御教えにあるようにです。
 心の眼が段々開けてくるようになるとです。些細な事でもそれをお粗末と感じ、些細な事でもそれを見逃さない。詫びるところは詫び、又は出来る事ならそこをお粗末御無礼でなしに、頂き抜いて行くという信心が、段々出来てくるようになる。成程これならば、おかげがです至るところに、表れてくるはずだと思いますね。昨日お道の新聞の歌壇に、どなたの詠ですか、こんな詠が書いてあった。「犬小屋の上に忘れし雑巾に音なく雨は降りてしずくす」という句です。
 お掃除の時、犬小屋の上にちょっと置いておった雑巾を、そのまま忘れておった。そこへ、しとしとと、お湿りがありだした。その雑巾から、滴がぽとぽとと落ちとるというような情景でしょう。犬小屋の上の雑巾に、目につく事も素晴らしいが、その雑巾から、滴が落ちている。それが詠にまでなっておるところが、素晴らしいですね。詠をする人は、いつも、そういう細かいところも見逃さない。いつもよい詠を作ろうと、専念しておるから。私共がよい信心をさせて頂きたいと願わせて頂いたらです。
 そういう風に眼が開けてくる。今迄気がつかなかったところに、気がつくようになる。だから、お粗末御無礼にもならない事になり、よしお粗末御無礼になっても、ちょっと失礼致しますというような事になってくる。これは御無礼な事が出来たと言うたら、それこそ、お詫びの印に、修行でもさせてもらわなければおられない程しのものが生れてくる。そこから、詫びれば許してやりたいのが親心だという、それを、おかげで示して下さるのです。信心する人は、何事にも真心になれよ。
 もう随分お互い、平気で使う御教えです。信心する者は何事にでも真心にならにゃと。と言うて、只言うておるだけで、果して今日私が皆さんに聞いて頂いたような、細かいところにです。心を何事にもと言うならそういう、細かい細かいところにでも、信心の眼をもって見せてもろうて。お粗末と御無礼を、有難いと有難くない事をです、見分けさせてもらえれる眼を開いていかなければ、真心になれよ。それが真心だ。それが信心でもあるのだ。と教えておられる訳ですね。
 実意をこめて全てを大切にと、言うておるだけではいけません。その実意をこめて全てを大切にするという事がどういうような事か。それを合楽では成り行きを大切にしてゆかなければならない。その事柄を神様の御働きとして御事柄として受けていけ。そこに、実意を欠く事は出来ない、欠がれない修行に一つのスムーズな、一つの調子が出てくる感じが致します。成り行きを大事にするという事を、本気で今日もという事になるのです。ところがさっきの話じゃないけれども。
 言うたりしたりした後にです。コロッと忘れとる。だからそこんところはあんまり引っ掛からずに、神様が忘れさせて頂いて、言いたい事を言うたという事になるのですから。その後に気がつくんですから、そこんところは又心に引っ掛からず、心を汚さず詫びていくという信心姿勢を、その次にとったらいいのです。そして繰り返し繰り返しその辺の稽古をさせて頂くうちにです。それこそ水も漏らさんという程しの、心の状態が出来てくるですね。そこから水も漏らさんおかげも勿論約束される訳です。
   どうぞ。